論語
上利 麻希子

現在の私は論語を読み始めたころと違う自分がある。
私は当初、物事を判断する能力がなければ生きる指針を見失ってしまうのではないだろうかという考えから常に判断力、ものの見方について考え、見てきた。よって、論語で学んだことをhow toとしての感覚で生活に取り入れたこともあるし、心がける思想を念頭に置くこともしてきた。その中で、日々惑うこともあったし、自分を見失ってしまうことも、怠惰な生活もあったし、様々に変化、成長する部分があった。こうして、私が自分なりに論語から得たことを述べていきたいと思う。またこのように考えたことを自分の戒めとして、日々成長する中の原点として残し、振り返る時間を作りたいと思う。
 以下は印象の強い言葉を抜粋したものである。


学而第一
 努力を楽しみながら、どんな状況になっても貫き続けることが大切である。これは私が目指す姿である。逆境に負けず、辛い状況に負けず楽しんで意志を貫く強さを持ちたいと思う。そのためには、己の人格を形成のために学問に励むことが大切である。学問や目標に向かって努力し続けることで、遠近に関わらず協力者が現われると言っている。ここで、もう一つ考えられるのは、「時」の重要性である。様々な解釈があるだろうが、私は“この瞬間に何を学んでいるか、どれだけ学んでいるか”ということが重要で、それを“どう活用できるか”というところがポイントになるのではないだろうか。そして、このように学ぶことに一生懸命になることを悦ばしいといっているのではないだろうか。学問とはこのように捉えて勉強を進めていくことが大切だと感じ、また学問をすることがいかにじゅうようで尊いことであるかを痛感した。


子曰、学而時習之、不亦説乎。
有朋自遠方来、不亦楽乎。
人知而不 、不亦君子乎。

君子務本。本立而道生。
孝弟也者、其 仁之本。

  “当たり前”という言葉は実に奥が深いのではないだろうか。個人の物事の判断には個人の善悪の判断が元になっており、そのひとの判断基準で“当たり前”の基準が変わってくるのである。つまり、世の中の事件はこの個人の判断基準のずれから生じる。ということは、冒頭で述べたように個々人が自分の哲学を問いただす必要があるというのは孔子の理にかなっているようである。
 では、判断基準とは何であろう。根本を見る力が問われる。ここで、学問の重要性が再度露わとなる。学業を志すものは何事にも根本に力を用いるということである。これは物事の重要性は根本にあることを述べていると考える。私たちは生きている上で様々な上辺の事情や私欲にとらわれがちであるが、物事の判断は常に根本を見てその重要性を問いただすことが大事なのではないだろうか。だから、自己の確立という根本にいつも目を向け確立していうことで将来の道が開けると説いているのだと考えられる。つまり、物事の本質は常に根本にあるということである。
 また、両親、家族など自分の周りにいる人たちを大切にすることが仁を行う根本だとしている。両親、先祖があってこそ今の自分がある。そのことに感謝し、両親に心配をかけないようきちんと連絡をとったり、自分の目標を話す時間をとるという一見当たり前のことが重要なことだと感じた。普段の当たり前のことに重要性を見出すこと、感謝すること、そして人として当たり前のことを当たり前にこなせる人間になりたいと思う


子曰、弟子入則孝。出則弟。
謹而信。 愛衆而親仁。
行而有余力、則以学文。

 目上の人を大事にすること、また敬意を持って接すること。また、最低限の品格を身に付けることが、仁者に近づいたり、学びたいと考えたときには役立つことも言っている。立ち居振る舞いが他人からの評価に繋がるということがいえるのではないだろうか。よって、行動学として学問に向き合うことが大切であると感じた。


賢賢易色、  賢人を尊敬する心を持ち、それを学習意欲や学ぶ楽しさに変えていくということ。私は好奇心が強いが、賢人を知り様々な学問のすごさや面白さを知り、幅の広い人になりたいと考えている。学ぶ好奇心を絶やさない生き方をしたい。


慎終追遠、

 徳は必ず帰ってくるということである。自分の人生に対して慎んで生きること、そして将来に対するちゃんとした目標を持って生きることの大切さをいっていると考える。また、そのプロセスに敬意を持つべきだということで、人の最後の立合いをちゃんとすること、礼を尽くすことを述べている。自分の肉親を大事にすることも言っている。


有子曰、信近於義、言可復也。
恭近於 、遠恥辱也。
因不失其親、亦可宗也。
 言行交際について、終わりを考え始めを謹むこと。つまり、相手の一番弱いところに立つことで利用されない、しない、平等な関係を築いていくこと。そのように謹んで生きていかなければ、後悔するという戒めであると解釈している。

子曰、不患人之不己知。
患不知人也。

 君子のようにすごい人は学問を知らない自分を恥じないとある。学問は人格の完成するためにするものであるという考え方からである。学問は自分のためのものであり、自分が学び続けなければ、知恵は生まれてこない。知恵は自分の中からしか生まれてこない。


為政第二
 人の善悪を知るには、まずその人の行為を調べてみることである。次にその行為の動機について調べてみる。もし、動機が善で善を楽しむ人ならば、その人は真の善人であるといっている。真の善人を探すことをしなくても、人を判断するときのひとつの基準になると考えられる。若いうちに「人を見る目を付けなさい」とよく言われるが大半の人はひとのどこを見てよいか分からない場合が多い。私は、この言を実行してみた。すると、人の行動、言動を観察してみるとその人に対する印象が初めと大きく変わるということが多々あるということを体験した。


子曰、視其所以、
観其所由、察其所安、
人哉。人哉。

子曰、君子不器。  人格の完成した人は様々なことに対応することが出来るということである。つまり、事物の道理を窮めることに力を注ぐことが大事である。何事にも柔軟に対応できる器の大きさを持つには学問をして、自己、人格形成に努めることがやはり重要である。


子曰、人而無信、
不知其可也。

 人は信があって初めて万事を行うことが出来る。信とは、心と言、言と行行との一致することを表す。したがって、言行の一致しない者は事を成そうとするときに安易に起用するものではないということが言えよう。また、良い人間関係は言行の一致する人の間で築かれる。


子曰、殷因於夏。
所損益可知也。

 「今より後のことを知ろうとするには今より前のことを観なければならぬぬ。」歴史から学ぶ、というのは中国に強い色調だが、日本人の歴史認識の能力というのは低いように思われる。歴史を学ぶことで、より他国の痛みみや事情を知り、現状でとるべき行動を判断するという力は今後伸ばすべき分野であろうと考える。


見義不、無勇也  道理の上から考えて正しいこと間違っていることは、進んで言行に移していけるひとになりたいと思う。


八第三

 これは形式にとらわれて物事の本意に欠けていることを言っている。先祖を祭るに当たっては真心を尽くすのが本意であって、儀式が目的なのではないということである。何事も真心が大事であるといえよう。


子曰、吾不興祭、如不祭。
君使臣以、臣事君以忠。

 これは、上司も部下もお互いに敬意を払って仕事をすることを言っている。上の者は下の者に敬意を欠きやすいものなので、誰にでも敬意を持って謙虚に生きることを心がけていきたい。


子曰、居上不寛、不敬、
臨喪不哀、吾何以観之哉。

 本を務むべきことを言っている。何事も根本の精神が欠けていれば、外観がいかに美しくても観るに足らないものであることを述べている根本を大事にしなければ、それは表面上に浮き出てしまうのである。内面を磨く、などとよく言われるが精神や心情はその人間を表に表すものなのであろう。


里仁第四

 智ある者は是非善悪を見分けるものである。しかし、仁がしっかりしていと里がマイナス方向へ行ってしまう危険性を説いている。現実の自分の立ち位置をちゃんとみることが重要であろう。


子曰、里仁美。選不仁、得知。

子曰、不仁者、不可以久約、
不可以長楽。仁者安仁。
知者利仁。

 ここでは、左右されない心を持つこと説いている。そのためには、目的を持つこと、価値観を築くこと、そしてどう生きていくかを明置を知る、つまり自分の実力を知るためには他力本願でなく自分の 力で色々なことに挑んでいくことが大切であろう。


子曰、惟仁者能好人、能悪人。

 好き嫌いという感情は誰にでもあるが、多くの人は私情を伴うから好んだり、悪んだりすることが道理に外れるのである。私情を混同しないで根本を見極められる判断能力を付けたい。


子曰、徳不弧、必有隣。

 徳は孤立するものではない。必ず同類のものがこれに応じて集まってくるものであることを言っている。遠方より朋来ると同意義であろう。


公冶長第五

 一つの物事に対して考えを深めることで、道理を明らかにしている。あれもこれもと手をいたずらに広げて多くに迷うのではないことを言ってい私はこの傾向が強いので選択するときは根本を見てじっくり考察するようにしていきたい。


季文子三思而後行。子聞之曰、再、斬可。

困第九

 孔子の心には次の常人の陥り易い四つの累いが絶無である。
意・・私意を持って事に臨むようなこと
必・・何でも予定通りに行おうとすること
固・・一事を固執して融通の利かないようなこと
我・・ただ我あるを知って他人を考えないようなこと
 これらの累いには、普段の活動の中で何気なく考えていることも含まれている。だから、日々これらの項目には注意し、反省しながら事に当たっていきたいと考える。


子絶四。意、必、固、我。

子曰、後生可畏。
知来者之不如今也。

 立場によって言いたくても言えない場合がある。だからこそ、今から駄目なことはダメと言い、間違えたら言葉を慎むというようにして、有言実行、言行の一致する生き方をしたい。そうすれば、立場は後からついてくると考える。


顔淵第十二

 己の私欲に打ち勝って礼に反るのが仁を行う方法である。礼に外れたものは視ない、聴かない、言わない、動かない。これは判断基準となるし、また自分を律することが仁であると言っている。


非勿観。非勿聴。非勿言。
非勿動く。

子張問崇徳惑。
子曰、主忠信、徒義、崇徳也。
愛之欲其生、悪之欲其死。
欲其生、又欲其死。
是惑也。
誠不以富、亦以異。

 惑いを明らかにするには惑いを生ずる元のものを知らなければならない。心に定見がなくて理をみることが明らかでないと、惑うのである。心に定見を持つために日々反省し、次の目標、課題を課していくという積み重ねが徳を積むということではないだろうか。


先事後得、非崇徳興。

 目先のことに捉われ、まだ実力も付いていないのに、新しいことに挑戦しようと色々なことに手を付けていると、結局何も身についていないという意味であると解釈する。私たちの世代は結果ばかりを求めて、一つを成し遂げるまで我慢できない傾向があるのではないだろうか。一つのことをきちんと成し遂げ自分のものにしてから、次のステップへ向かうことを大事にしたい。

曾子曰、君子、以文曾友、
以友輔仁。

 「仁をなすは己に由る。由らんや。」ということで、友をもって仁を輔けるには、己自身にまず道を明らかにし徳に進む工夫をしなければならない。基本は自分。自分に厳しく徳を追求していく姿勢が大事で、人に影響を与えるにもまず、自分の道理が明らかになっていなければいけない。


憲問第十四

 仁は存し難く失い易い。私は論語を勉強してこう在りたいと考え、やるべきことを課していく試みをする。しかし、「今日ぐらいいいか。」などといった甘えや様々な誘惑に負けてしまって、信念を貫き通せないことがある。私欲にとらわれない意思を持ち続けるにはやはり自分と向き合うしかない。常に自分の初心に戻り、日々反省し自分と向き合って生きたい。その積み重ねが仁の形成に繋がっていくと考える。私欲にとらわれぬ心を築くことは難しいがその努力を続けることで自分の意思を貫ける人になりたい。
 また、他人を判断するときに、私欲にとらわれぬ心の持ち主は自分の意思を貫こうとする立派な人間であると判断できるだろう。そのような人を師とし、自分を奮起させていく環境を作ることも重要だと感じた。初めは自らを律する場に進んでいくこともひとつであろう。


子曰、君子而不仁社有夫。
未有小人而仁者也。

子曰、君子道者三。我無能。
仁者不憂。知者不迷。
勇者不懼。
子貢曰、夫子自道也。

 仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れない。私はこの部分が好きである。人生を進む時に迷わず、颯爽と進んでいくたくましい姿を想像すすることが出来る。孔子がこの徳を為す三つの道のうち自分はのどれも出来ていないと嘆いたのに対して、子貢は孔子にどれも十分お出来になると返した。孔子の姿は周りの者の尊敬を集める人柄であったことがわかる。
 どの三つの道にも共通して言えることはやはり、行動に踏み出せるほどきっぱりと物事を判断できる力であろう。


衛霊公第十五

 自分に対し、おごそかに敬しんだ心を持っていること、また背く心を持たないことで人々との争いはない。和らいで親しんで人々と接する事が大切だがそこで自分を失わないこと。これは、分かっていても、行動に移すとなると難しいことである。心がけることから始めたい。


子曰、君子而不争。
群而不党。

子曰、人能弘道、非道弘人。

 人以外に道はなく、道以外に人はない。これは人と道は切り離せないものであることを説いているが、別々の要素を見てみると、人は考えることが出来る。道は道に過ぎない。つまり、人生は自分の考え方や努力で切り開いていけるものだということを説いているのだと考える。だから、自分で自分の人生に責任を持って生きることを徹底したい。


子張第十九

 仕えるのはその学んだ所を行うのであり、学ぶのは仕える基を作るのであると言っている。つまり、道は同じで事が違うということである。社会において私たちは皆違う役割を持っている。同じ社会に生き、役割を担うという道は同じだが役割という事が異なる。社会での役割を皆持っているのだから、私達は役割に責任を持ちやり通さなければならない。


子夏曰、仕而優則学、
学而優則仕。

尭曰第二十

 人は礼を知ってこれを守れば徳性が硬く定まって自ら立つことが出来るる。しかし、これを知っているだけでは意味をなさず、守って行動に移すしていくことが重要なのである。そうしなければ、標準という判断基準を見失い、様々な外因によって振り回されてしまう。これでは、自立することが出来ない。
 また、言の得失によって人の心の正邪を知ることができるといっている。これは、また逆に自分の言動が他人の評価に繋がることを意味しているので、自分が相手を、相手が自分を測るのには言は判断基準のひとつになる。ただ、ここで重要なことは自分が相手を測ることが出来るだけの正しい知識や情報、礼、徳があるかということである。測れるだけの力量をまず自分が持つこと、基本は自分ということがいかに重要かはこの書の至るところで述べられている。


子曰、不知命、
無以君子也。
不知、無以立也。
不知言、無以知人也。

 以上、私の印象的だった部分を抜粋してきたが論語を勉強してきて、最も強く感じることは知的好奇心の重要性である。人格形成に一番大事なことではないだろうか。これは、生活の中で注意してみるとあらゆる所で耳にするポイントで、それは「知ることで経験する」と言われたり、脳科学の見方から行動修正について「違うことをして脳に経験させる」とか、「自分の限界の枠を作らないこと」などと表現されている。今までは経験と言うと、やはり自らが実際に体感したことを定義付けていたが、知識による“知る”ということが見識を広げる経験になるということは私の好奇心をとても掻き立てたし、またそれを理解することで学ぶことが人格形成であるということは大変納得のいくことであった。
 よってこのような解釈がなされなければ、知識ばかりが詰め込まれて空理空論ばかりになってしまうことは言うまでもないが、ここで一つ疑問に思うことは、なぜこれまで著名かつ古くから知識人にも愛読されてきたといわれる論語が今もなお存在するにも関わらず、孔子が何度も説いてきたような素晴らしい世の中が実現していないのか。
 それは、いつの世も人は“人間の愚かさ”から離れることが出来なかったのではないかと考える。私欲や私情という愚かさがあったからこそ人々は過ちを犯し、また発展するということを続けてきたように思う。だから、なぜよりよい社会が築かれていないのかということよりも、その愚かさにに対する戒めとしていつの世も必要とされてきた書なのだと解釈するほうが正しいのかもしれない。よって、私は社会に出て行くことを見据えて思うことは、やはり人間というものの愚かさや、弱さ、そして強さ、素晴らしさをしっかり見ていく必要もあるということである。それは、社会に対応していく為に必要なことであると考えるし、また、相手、自分の行動や言動は人物を判断する基準となるということを知ることであると言えるだろう。
 そういう意味で、言動が一致した人物であるかどうかということは判断基準のひとつにになることを経験したし、そのためには、自分の言動を慎むこと、また有言実行することであるが、実際これはなかなか大変なことである。だがこうして、ひとの言葉の重みや信用が構築されていくわけで、やはり言行が一致した人というのは私欲に打ち勝ち、自己の信念を貫いている人という生き方が美しいひとが多い。したがって、このような人たちと多く縁を結んでいくことで、自分を奮起させていくという環境作りもとても重要なことであると感じる。心地よい空間を自ら築いていくこと、それにはやはり自らを高めること、つまり徳という精神を日々心がけることが大切である。
 では、心地よい人間関係の最小の単位とは何かと考えると、やはりそれは孔子の言うように家族であろう。また、友達などであり今自分の回りにいる人達を敬い、大切にすることが根本である。そうすることで、同じような価値観を回りに広げ、よい人間関係を築いていくことが出来る。これは、自分にとっても、また回りにとっても幸せなことであり心地よいということである。このように当り前だけれど、まわりにいる人、ものを大切に思ったり、敬うその心がよりよい社会を築くことに繋がっていくのだと考える。
 最後に、現在、私たちは日本の社会状況の悪化や、世界情勢などの大きな問題を多く抱えている。しかし、それらは簡単に解決できる問題ではないし、国家間に思想や生活状況等の違いからも解決は難しい。しかし、家族を大切にするということや、自分の目標を達成するために努力をし、人格形成に努めるということは国を超えたところにある本当に根本的なところである。したがって、論語の素晴らしさというのは、物事の根本に常に目を向け、当り前のことを当り前にするというような極めてシンプルなところだと考える。これらは、核心的で人間が生きている上で共通している点ではないだろうか。この部分を皆が大切に守っていけたならきっと社会はより良いものになっていくと考える。私は今後、判断基準を身に付けるために、人格形成のために、そして何より好奇心を大事にして学問に取り組んでいきたいと思う。また身に付けたことは立ち居振る舞いに、そして行動に移していきたいと考える。生きた学問という知識の吸収し方をしていきたいと思う。そして、自分の回りの人達を大切にし、よい人間関係、心地よい空間を築くことをいつも心がけていきたいと考えている。